ハチミツと名乗るそのメールの送り主は、優しくて柔らかい言葉で、あたたかな賛辞をくれた。 はちみつソーダ … 1 月末がやってくるにつれ、僕のテンションは下がっていく。 大きく息を吸うと重い溜息しか出てこないけれど、それでも仕事をしないわけにはいかない。手を休めずに動き続ける。 カツカツと、高らかな靴音が響いてきた。半年経って覚えた、この靴音はあのひとの靴音だ。 反射で、背中と肩にじわりと緊張が走る。 「クロ、まだ品出しできてないの」 カツッ、と歯切れのよい音が僕のすぐ後ろで打ち止められ、規則的な靴音の代わりに続けられたのは、鋭い声だった。 「…すみません」 香良洲先輩は、ただ売り場の状態を確認しているだけだとわかってる。だけど、何故か、自分の行動の遅さを咎められているような気になる。 だって、先輩たちに比べて、僕の作業スピードは遅い。そのことで、先輩を苛立たせているんじゃないか、と僕はつい彼女の顔色を窺ってしまう。 先輩は一般社員だけど、売り場統括者であるマネージャーと呼ばれる立場に限りなく近い。 これがマネージャーなら、立場が違うから、とステージが違うことに安心して、自分と先輩の能力の差を気にせずにいられたんだろう。 だけど、先輩は一般社員なのだ。勤めている年数の差、経験の差はあっても、それ以外の立場が違わない。 新入社員の僕が、この先輩と同じだけの働きをしろと期待されているわけではない。まだ戦力とも言えない自分が、先輩の比較対象になるはずなんてないのはわかりきっているんだけれど、それでも同じ売り場にこれだけデキるひとがいると、比べられて、呆れられているんじゃないかと気が気じゃないのだ。 模範が素晴らしすぎれば素晴らしいほど、その他大勢の中に埋もれてしまうような僕の気は重くなる。 自意識過剰で卑屈なのは悪癖だとわかっていても、改まらない。 ああ、そんなことを考えているとまた気分が滅入る一方だ。 「クロ、わかってるだろうけど、あんたもう半年経ってんだから、数字やり遂げなさいよ」 肩口で艶やかな黒髪を切り揃えた先輩は、鋭い目をしてはきはきと口を開いた。 僕は蛇に睨まれたカエルのように、背筋をぴっと伸ばして硬直する。 お客様を前にすると優雅な微笑みを絶やさないこの先輩は、仕事に対して手を抜かない。要領がいいとは言えない僕に、眉間にひどい皺を寄せて冷ややかな一瞥を向けてくることなんて日常茶飯事だ。 日常茶飯事だからって、傷つかないわけじゃない。 なんでもない一言のはずなのに、ささくれみたいに、鈍く痛む。 「…わかってます」 応えた声は、自信のなさを表したような、聞き取りにくい小さなものになってしまった。 先輩は片方の眉をキリリと吊り上げて、「聞こえない」と明瞭な声で告げる。 「もっとしゃきっと喋りなさいよ。あと、わかってるだろうけど、新入社員だからって甘えないようにね」 きりりと尖った声を残してヒールの音高らかに先輩が去っていく。 その場に残された僕は俯いて下唇を噛んだ。 次の休日までまだ日はあるのに、疲労感がつきまとって離れてくれない。 半年経っても、まだ一人前になれていない自分への焦燥感に、急かされて振り回されている。 気分を切り替える努力として大きくひとつ溜息を吐いて、品出し作業を再開した。どんよりとした気分は去ってはくれなかったけれど、動いていると、少しだけ気が紛れた。 足が痛い。 どうして一日立ちっぱなしで動き回る職場を選んでしまったんだろう。 今更嘆いてもどうしようもないことを、頭の中でひとり呟く。電車というインターバルを挟んでも回復しきらない重い足を、とぼとぼと動かしながら、家路を急ぐ。 半年経っても慣れないし、足は痛いし、やっぱり接客業なんて口下手な僕には向いていない。勤め始めてから毎日思う。 一刻も早く家に帰って、曲を作ろう。 地面を見つめて、足だけ動かす。 早く、早く、家に帰ろう。 重い金属製の扉を開ける。 ただいま、を言う習慣が自分の中から抜け落ちたのはいつからだろうか。 しんと静まり返った暗い部屋から返事がないことに慣れていくのと比例するように、ただいまを言わなくなったように思う。そのことを悲しいだとか思わなくなるぐらいには、心が麻痺してきているのかもしれない。 感覚で壁に手をやり、灯りのスイッチをつける。オレンジ色の明るい光に目を細めながら、ただいまの代わりに深く息を吐いた。 ネクタイを緩めながら靴を脱いで、真っ直ぐに部屋に向かう。 カバンをベッド脇に置き、流れるように机に向き直ってパソコンの電源をつける。耳慣れた作動音とともにランプが明滅するのを確認してから、一旦パソコンに背を向けた。 パソコンが起動していくのをじっと見ているのは好きだ。けれど、常に時間に追われている毎日の中では、それをぼんやり見るだけの余裕もなく、時間がもったいないからと早々に背を向ける習慣がついてしまっている。 パソコンの立ち上がりを待つ間にスーツを脱いでハンガーにかけ、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して喉を潤した。 そろそろ起動できただろうと見当をつけて、ペットボトルを持ったまま机に向かう。 画面に一人の少年の後ろ姿が映っている。イメージを固めるために、デスクトップに設定しているイラスト。 アプリケーションを起動すれば、最近かかりきりになっている曲が、ゆっくりと流れていく。 彼は僕だ、と思いこんで、壁紙の少年の背中を見つめながら作った曲。 イラストの背景は日暮れか夜明けか。イラストの中では世界は眠りについていて、少年だけがひとり眠りの世界から取り残されている。 画面の中の少年の背中は、歩きだしたいのに途方に暮れているようで。 空っぽの手のひらを見つめて誰かと繋がることを強く望みながら、ひどく寂しい気持ちを抱えているようで。 独りきりで背中を向けて立つ姿に、こころが静かに震えた。 ただのイラストをそんな風に捉えるのは、僕が感傷的すぎるんだろうか。 社会人になって働き始めたっていうのに、音作りをやめられない。 幼い頃の僕より立派になったなんて思えない。 年齢を重ねて大人と呼ばれるようになってしまったけど、僕の中に子供のままの僕が確かに生きている。 ぼくのうたを聴いて、と小さな声で呟いている力のない子供の僕がいるのだ。 音作りに向ける気持ちを殺して、もっと仕事のことだけ考えて仕事一筋に生きるべきなんだろうか、と半人前の自分を省みて、考える。 音楽の道で食べていけるなんて思ってない。 だからって、今の仕事のことだけ考えて、音作りを放り捨てて生きていくこともできない。 こんな中途半端な自分のまま、ずっと生きていくのかな、と思うと、ひどくやるせない気持ちに襲われる。 独りで、誰も愛せないまま、誰にも愛されないまま、生きていくのかな。 「だめだ、また気分が沈んできた…」 溜息を吐いて、頭を振る。流れている曲が、気分を下降させていっているのだ。 寂しさとか日常の憂鬱とか、そういうものだけが曲に表れているから、今の曲はまだ完成させられない。どこがどう悪いというわけじゃないけれど、全体的な印象に、自分自身で納得できない。 小さなことでくよくよする弱い自分を知っているから、せめて自分の作る曲ぐらいは前向きな音を織り交ぜたいと常々思っているのに、うまくいかない。 今の気分のままだと、曲をいじっても悪化させる一方な気がして、アプリケーションウィンドウを閉じた。 と、見慣れたデストップ画面がいつもと違って見える。 メールが来てますよ、というお知らせサインがチカチカと明滅しているのだ。 『件名:ソーダさん、はじめまして。 本文: ソーダさん、はじめまして。 ソーダさんの曲を使ってらっしゃるサイトさんで聴き惚れたのをきっかけに、初めてお邪魔させて頂きました。 サイトで公開してらっしゃる曲が、どの曲もすごく好きです。 一目惚れではなく、一耳惚れって言えばいいんでしょうか。 他サイトさんで曲を一曲聴いたとき、もう少し曲を聴いていたい、もっとこのひとの作った曲が聴きたい、と思いました。 ソーダさんの曲は言葉より雄弁に、音が語りかけてくるみたいです。素敵な物語を読み切ったときのような満足感というか、胸の奥にまっすぐ響く音でした。 一曲一曲じっくり聴いているので、公開されている曲をまだ全部聴き終えてはいないのですが、大事に大事に聴かせてもらおうと思います。 ソーダさんの曲で心が洗濯できたというか、元気をもらえたと思います。 またお邪魔させて頂きますね。 ハチミツ。』 無機質なはずの文字を、何度も何度も、目で追った。 うたを、聴いてくれた。 自分が作ったものを認めてくれて、好きだと言ってくれた。 それが、一度かぎり、電子の海の中ですれ違うだけのひとだとしても、嬉しかった。 中途半端でどうしようもない自分に、少しでも価値があるのだと信じられた。 |
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